ネットと学校教育
2007-09-10 Mon 15:05
 こんなエントリーがはてなで少し話題になっている。以前に「知識のフリーファイト」というエントリーを書いてその中でフューチャリスト宣言の中の言葉を引用したが、このエントリーでもそれについて言及している。
 私なりに要約すれば、「現在の教育システムは時代遅れで、新しくできたインターネットを利用することが大事である」といったところだろうか。これだけ要約すると誤解もだいぶ発生するので元のエントリーを読んでほしい。

 まずは同意する部分を引用する。

フューチャリスト宣言という本がある。そこで脳科学者の茂木健一郎さんという方が『大学というシステムが終わっていることは体感でわかるんですよ。』と言っていた。そのときは言いすぎだろうとも思ったが、考えるとやっぱりそんな気がしていた。そして今日、現代文の授業を受けていて切に思った。「こんな授業意味ねぇ!」と。意味がまったくないとまではいわないが、とんでもなく非効率なことをしているのは確かだと思う。

という部分と

これは先生がどうこうという問題ではなくてシステムが駄目だ。つまり文科省が分かっていない。時代の流れについていっていないのだ。
といってもこの激しい時代に合わせて次々にカリキュラムをアップデートしていくのは文科省のキャパじゃ無理だ。だからもう『学校教育という制度自体がもうすでに終わっている』としか言いようがない。

というところである。
 今の教育システムが時代遅れなんて誰もが分かっている。ではなぜ変化しないかというと文科省もどうすればいいか正直分かっていないからだろう。学校の教育なんてのは昔から変わっていなくて、それでいていまだに40人という単位で授業を行っている。画一的になるのは当然だろう。
 自分も高校の時に授業は意味がないと思っていた。高校1,2年のころはプログラムの本を読むとか違うことをしていたこともあったし、3年の受験シーズンになると内職していてほとんど聞いていなかった。でも、困ったことにテスト直前に勉強すれば8割程度は取れた。どこも困っていないではないかと思うかもしれないが、まじめに授業を聞いていた人と自分との順位が大して差がないのだ。これは困ったことだろう、何のための授業なんだろうと。
 そもそも文科省には「一人ひとりの個性にあわしたフレキシブルな教育システム」というやつは無理なのだ。トップダウンのシステムは三角形の頂点から底辺へと広がっていくように画一的にならざるを得ないのだ。だからこそ、時代遅れなのだ。

 では、同意しない部分を引用する。

大体ネットという『言語以来』のものが出てきたというのに国語教育は30年前と同じでどうする?本来現代文の授業は教室じゃなくてパソコン教室でやるべきだ。30年前に求められた国語力と今求められる国語力は違う。これからの子供達が一番文章を書くのはノートじゃなくてネットだ。だったらネットにあわせた教育をすべきだ。

確かにインターネットは便利であり、今までの知のありかたを変える可能性が十分に高い。しかし、インターネットを使うことそのものはそれほど大事ではなくてインターネットで何をするかが大事だろう。あくまでネットはツールに過ぎない。使う人にメディアリテラシーがなければ意味はほとんどない。メディアリテラシーのない人が使うインターネットよりメディアリテラシーのある人が使う図書館のほうがはるかに信頼できる。
 ただ単純にネットにしましょうでは、それこそどこかの省庁が考えそうな安直な意見で、「使いました、はい終わり」みたいになってしまう。パソコンを使ってインターネットをすることではなく、そこで何をするか、どのように情報を活用するかを教育することのほうが大事である(つまりメディアリテラシーを教育しろと)。
 しかし、全体的には現在の教育システムは古いと思うし40人という単位ではもう無理が来ているのは確かで同意するところだ。かといって単にインターネットを使いましょうという段階はとっくに過ぎ去っていることも確かだ。以前にも書いたが、簡単なプログラムぐらい全員かけるようになってもいいと思う。

 引用先のブログはタイトルからして高校生が書いているのは確かなのだが、高校生からこのように意見を書いて書かれてというのを繰り返すのは非常に大事だと思う。現代文の授業にこのような形式で論議をさせるのもおもしろいのではないか。お互いが向き合ってのディベートにもそれなりの良さがあるが、強引な意見に押されたりその場の機転が試されているところがある。ブログで投稿する形なら何度も推敲できるので質の高いものが出来上がる。うっかりミスの発言というのもあまりなくなるし、そういういい訳もしづらい。
 このエントリーを取り上げたのは自分が高校生のころとなんとなく似ていると思ったからだ。こんなことを考えていたし、初級シスアドがなくなるなんてことも書いているところからも普通高校の生徒ではなくたぶん商業高校の生徒であろう。そんなところに親近感が湧いた。
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